ちょっと暇なくらいが、ちょうどいい

こんにちは、しょうえいです。

今日は、ふと立ち止まったときに感じたことを、綴ってみたいと思います。

最近、「やることが多いなあ」と思う日が続いていました。

朝から晩まで、やることリストを片手に動き回って、気がつけば一日が終わっている。

予定が詰まっていることに安心しながらも、どこか心が追われている感じがしていました。

そんなとき、ふと、「みんな、もっと暇でいてもいいんじゃないかな」と思いました。

もちろん、やるべきことがあるのはありがたいことです。

しかし、「この忙しさって、本当に必要なのかな?」と問いかけてみたら、心が少しほっとした気がしました。


スマホを開けば、すぐに答えが出る。

AIに聞けば、たいていのことは教えてくれる。

便利な時代に生きていることへの感謝は、日々感じています。

おかげで、遠くの人ともすぐにつながれるし、仕事も早く進むようになりました。

でもその一方で、いつも「何かとつながっている」ことに、ちょっと疲れてしまうこともあります。

誰かの通知、締切のリマインド、次々に入ってくる情報。

「便利」と「せわしなさ」は、表裏一体なんだなと感じます。

「デジタルデトックス」という言葉もよく耳にしますが、これって、どこか矛盾しているようでおもしろい

便利さに感謝しつつ、でも少しだけ離れたい。

そんな気持ちになるのは、私だけではないはずです。


ある日のこと。

散歩するのに、ふと思い立ち、スマホを置いて出かけてみました。

道端の草花や、空の色、遠くから聞こえる鳥の声。

いつもなら音楽やポッドキャストを聞きながら歩いていた道が、今日は静かでした。

不便を選んだつもりはなかったけれど、手間や不自由さの中に、確かに「気づき」があるんだなあと感じた瞬間でした。

たとえば、手動でドリップするコーヒーの香り、湯船にゆっくり浸かる時間、誰かに手紙を書くこと。

そんな些細な手間が、心の余裕につながっていくのかもしれません。


「すこし暇なくらいが、ちょうどいい」

そう思えるようになってから、物事の感じ方が少しずつ変わってきました。

例えば、季節の変わり目に気づいたり、人の表情を丁寧に見るようになったり。

心の中に余白があると、いろんなものが自然と入ってくるんですね。

仏教では、「間(ま)」や「無常(むじょう)」といった言葉がよく出てきます。

「間」は、音と音のあいだ、言葉と言葉のあいだ、動きと動きのあいだにある、静けさや余白のこと。

「無常」は、すべては変わりゆくものだという教え。

だからこそ、何かをぎゅうぎゅうに詰め込むより、空けておくこと、流れに身をゆだねることが大切なのかもしれません。


暇は、決して悪いものじゃありません。

むしろ、心のなかに余白がある、ちょっと暇なくらいが、ちょうどいいのかなと感じました。

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