「悪気がない」は、言い訳にならないかもしれない
shoei
仏教と暮らしノート
こんにちは、しょうえいです。
お寺という場所では、日々たくさんの出会いと別れが訪れます。
思いがけないタイミングで新たなご縁をいただくこともあれば、大切な誰かとの別れに立ち会うこともあります。
そんなとき、心に浮かぶのは仏教で説かれる「愛別離苦(あいべつりく)」という言葉。
愛する人と別れることは、どれだけ心の準備をしても、やはり寂しく、悲しいものです。
たとえ短い時間でも、たとえ最後が別れに終わったとしても、その出会いにまったく意味がなかったとは思えない。
いや、もしかしたら、意味を見つけたいのは私自身の願いなのかもしれません。
それでも、意味を感じながら、感謝しながら、人と出会いを重ねていく。
そんな姿勢こそが、「仏縁に生きる」ということなのではないかと、感じることがあります。
仏教にはこんな言葉もあります。
袖振り合うも多生の縁
道でたまたますれ違い、袖が触れる
そんな小さな偶然ですら、過去世から続く深い縁の結びつきによるものだと説かれています。
そう思うと、今日道ですれ違った人も、たまたま言葉を交わした人も、すべてがかけがえのない巡り合わせに思えてきます。
忙しさに追われる日々の中では、つい出会いを「当たり前」のように感じてしまうこともあります。
けれど本当は、どんなに小さな出会いも、どんなにささやかなご縁も、二度と同じものにはならないものなのだと思います。
だからこそ、有難いと思えるのかも知れません。
仏縁は、目には見えないものです。
けれど確かに、私たちの人生に静かに寄り添っています。
出会いも、別れも、喜びも、寂しさも、
すべてをひとつひとつ大切に受け止めながら、
これからも、仏縁に生かされていることを忘れずに歩んでいきたいと思います。