しょうえいの日録
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「悪気がない」は、言い訳にならないかもしれない

shoei
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こんにちは、しょうえいです。

今日は、日常の中でふと気づかされた、ある出来事について書いてみたいと思います。

親しみのつもりだった、ひと言

ある日、ささやかな会話の中で、私は軽い冗談を口にしました。

もちろん、悪意なんてまったくなく、その場の空気を和ませようとしたつもりで、親しみもこめていました。でも、そのあとすぐ、相手の表情がふっと曇ったのが見えました。

「あれ……?」と違和感が胸に残りました。

そのまま会話は続きましたが、自分の中では何かが引っかかっていました。

後からじわじわと湧いてきた後悔

一人になってから、心の中でその場面が何度も繰り返されました。

「言わなきゃよかったかな」
「なんであの言葉を選んだんだろう」

時間が経つほど、なんとも言えない後悔が大きくなっていきました。そして、「悪気がなかったから許される」と、どこかで思い込んでいた自分に気づき、反省しました。

言葉は、自分の手を離れてしまう

言葉は、自分の手を離れてしまう

この経験から、以下のことを考えるようになりました。

  • どんな気持ちで発したかよりも、どう伝わったか、どう受け取られたかのほうが大切。
  • 自分の中では冗談でも、相手にとってはそうではないかもしれない。
  • そのすれ違いが、静かに心を傷つけてしまう可能性がある。
  • 「そんなつもりじゃなかった」という言い訳は、自分を守るためのものになってしまう。

仏教では、言葉の使い方に細心の注意を払うよう教えられています。例えば、『スッタニパータ』には以下のような言葉があります。

人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。

自分を苦しめず、また他人を害しない言葉のみを語れ。

この教えは、言葉が他者を傷つけるだけでなく、自分自身をも傷つける可能性があることを示しています。

気づけてよかった、けれど

こうして文章にしている今でも、少し苦い気持ちがあります。

でも、こうして「自分の中にあった思い込み」に気づけたことは、ある意味ありがたいことだったと思っています。

同じ場面がまた来たとき、相手の表情にちゃんと気づけるよう、言葉を選べる自分でありたい。そして、自分の言葉がどこまで届くのかを、もっと丁寧に感じ取れるように精進したいと思います。

ABOUT ME
しょうえい
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僧侶
お寺の住職を務めながら、「仏教の学び」や「生活の知恵」を日々の暮らしに活かすことをテーマに、ブログで発信をしています。 生活が豊かになるヒントや、見直すきっかけになれば嬉しいです。 コメントなどもお待ちしております。
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