傷つけ合う親子に必要な再構築の視点
こんにちは、しょうえい(@shoei_y5)です。
先日、ある方からご相談をいただきました。
子どもに早く死んだらいいのにと言われました。
私自身の存在を否定されたようで、とても悲しく、涙が出ます。
そんなふうに育てた覚えはないですし、これまで子どもに迷惑をかけた覚えもありません。
どうしたらよいでしょうか。
親御さんからすれば、手塩にかけて育てた我が子から、存在を否定されるのですから、その悲しみは計り知れません。
私の立場から申し上げるとすれば、どんな理由があろうとも、自分の命の根源である親やご先祖様に対し、「死ね」という言葉を吐くことは、決してしてはならないことです。
それは道徳的な意味だけではありません。 自分のルーツを呪うことは、自分自身を呪うことと同義だからです。
しかし、それほどの言葉が出てしまう背景には、親子間でどうしても埋まらない「深い溝」と、目に見えない「因縁」があることも事実です。
今回は、あるご家庭の話をモデルに、なぜ愛すべき親子が修羅場となってしまうのか。
そのメカニズムと、私たちが取るべき道について考えてみたいと思います。
- 「死ね」という言葉の裏側
- 親子の「当たり前」の違い
- 解決へのステップ
大前提|言葉は、自分自身を傷つける刃にもなる
まず、もしこの記事を読んでくださる方のなかにもこういった経験があったり、今現在も思っている・言ってしまっている方がいるとすれば、お伝えしたいことがあります。
やはり、どれほど腹が立っても、どれほど追い詰められていても、親に対して「死ね」という言葉を使ってはいけません。
あなたが親に向けたその冷酷な言葉や態度は、ブーメランのように、いつか必ずあなた自身に返ってきます。
将来、あなたが老いたとき、あなたのお子さんや周囲の人から、同じような眼差しを向けられることになる原因になりかねません。
それが 「因果(いんが)」 の恐ろしさです。
何より、親や先祖は、今のあなたが存在するための「根っこ」です。
根っこに毒を注げば、その木(あなた自身)や、その枝葉(あなたの子孫)もまた、健やかではいられなくなります。
「そんなふうに育てた覚えはない」という親の無自覚
一方で、言われた側の苦しみもまた、深いものです。
手塩にかけて育てた我が子から、存在を否定されるのですから、その悲しみは計り知れません。
「私は一生懸命育ててきた。そんな暴言を吐く子に育てた覚えはないし、子どもに迷惑をかけた覚えもない」
その言葉は、本心でしょう。嘘をついているわけではありません。
しかし、私はここに少し「認識のズレ」があるように感じます。
親御さんにとっての「良かれと思ってしたこと」「当たり前の教育」が、お子さんにとっては「支配」や「重荷」として蓄積されていたとしたらどうでしょうか。
「覚えがない」というその「無自覚(仏教でいう無明)」こそが、実はお子さんを最も苛立たせる引き金になっていることがあるのです。
「因縁」|火のない所に煙は立たない
仏教には「因縁(いんねん)」という言葉があります。 すべての結果には、必ず原因(因)と条件(縁)がある、という教えです。
お子さんが、あなたに対して「死ね」という激しい言葉を使うのであれば、そこには必ず原因があります。
それは、あなたが「悪い人だから」ではありません。
しかし、長い年月の中で、お子さんの中に「そう思わせてしまう種」が蒔かれていたことは事実なのです。
「私は悪くない、あの子がおかしい」
そう思っているうちは、この因縁は解消されません。
「私の何気ない振る舞いが、相手を追い詰めていたのかもしれない」 そう視点を変えることが、解決への第一歩となります。
なぜ、話が通じないのか|「当たり前」の違い
なぜ、これほどまでに話が通じないのでしょうか。
私は、親世代と子世代で、生きるために使っている 「当たり前」 が、まるで違うことが原因だと考えています。
特に、親世代によく見られるのが、「決めつけ」です。
- 「こうあるべき」
- 「こうするのが当たり前」。
この強い信念は、彼らが生きてきた時代では「正解」でした。
しかし、その正解を子ども世代に押し付けると、途端に「支配」に変わります。
親の視点
「子どもはいつまで経っても子ども」
親が子を育てるのは当たり前だが、社会人となったのなら、子が親を支えるのもまた当たり前。
子の視点
「親も一人の自立した人間であるべき」
親だからといって、子に依存したり、価値観を押し付けたりしてはいけない。
親は「親子の情(タテの関係)」を求め、子は「個の尊重(ヨコの関係)」を求める。
この 「当たり前」の衝突 が、歪みを生んでいるのです。
「他人のために」vs「自分のことは自分で」
このすれ違いを、もう少し具体的に見てみましょう。
昔と今では、学校や社会で教えられる「美徳」が180度違います。
親世代の教え
「自分のことばかり考えるな、他人のことを大切にしろ」
滅私奉公。
自分の欲を抑えて、家族や会社に尽くすことが美しいとされました。
だから、親が子に干渉するのも、子が親を支えるのも、彼らにとっては「愛」なのです。
子世代の教え
「他人のことを言う前に、自分のことをちゃんとしろ」 自己責任論。
まず自分が自立すること、人に迷惑をかけないことが誠実さだとされました。
だから、親からの過度な期待や依存は、彼らにとって「自立を阻むルール違反」に見えるのです。
お互いに、自分の時代の「正義」を守っているだけ。
なのに、それが相手にとっては「悪」になってしまう。これが悲劇の正体です。
「信仰」を失い、「資本主義」を生き抜いた世代の自負
さらに、ここには 「信仰」と「時代背景」 の変化も影を落としているように感じます。
日本において戦後(1945年以降)から現在に至る長いプロセス、特に1970年代から1980年代(バブル期)にかけてが、人々の信仰が薄くなった(あるいは「宗教離れ」が進んだ)と、大きな転換点とされています。
それまでは、まだ仏教や先祖崇拝といった「目に見えないものへの信仰」や「家督制度」が、生活の根底にありました。
しかし、子世代は、バブル経済とその崩壊を経験し、価値観が 「資本主義(お金と科学)」 へと大きくシフトしました。
彼らは、社会の中で「個人主義」を身につけ、必死に競争社会を生き抜いてきました。
その中で子育てをし、家庭を守ってきた。
きっとお子さんの中には、「誰にも頼らず、自分の力でやってきた」という強烈な自負があるはずです。
それなのに、親から見れば「まだ甘い子ども」として扱われる。
- 「これまでやってきたことを認めていないのか」
- 「まだ支配するのか」
その歪みと苛立ちが、「死ね」という拒絶の言葉となって爆発しているのではないでしょう。
「解決」を急ぐ前に。一度、立ち止まって問いかける
では、どうすればこの関係は救われるのでしょうか。
すぐに「離れる」「縁を切る」という結論を出す前に、お互いの心に問いかけてみてください。
親世代への問い
「育てた覚えはない」という言葉。その自信はどこから来るのでしょうか。
あなたの言う「愛」は、今の相手にとって本当に「愛」として届いているでしょうか?
目の前にいるのは、かつての子供ではなく、違う時代のルールを生きる一人の大人です。
あなたは、 「今のその人」 を見ていますか?
それとも 「過去の記憶」 を見ているだけではありませんか?
子世代への問い
あなたが感じている激しい怒り。その正体は何でしょうか。
本当に親を憎んでいるのでしょうか?
「死ね」という言葉で、あなたは本当に何を守ろうとしているのでしょうか。
傾聴(けいちょう)という歩み寄り
傾聴という姿勢があります。
自分の正しさを主張するのではなく、ただ「相手がなぜそう感じるのか」に耳を澄ますこと。
「理解」できなくてもいいのです。「知ろうとする」こと。
親は「昔とは時代が違うから、生きるのが大変なんだろうな」と想像してみる。
子は「この人は、こういう価値観で生きられない人なんだな」と観察してみる。
「私の正義」を一度脇に置いて、「なぜ、私たちはこんなにもすれ違うのだろう?」そう二人で首を傾げることができたなら、そこには「死ね」という言葉が入る隙間はなくなるのではないでしょうか。
まとめ|問いかけることから始めよう
すぐに解決できる問題ではないと思います。
ただ、怒りに任せて言葉を投げる前に、一度だけ「問い」を心に置いてみてください。
もし、問いかけた上で「それでも今は苦しい」と感じるなら、その時はじめて 「距離を置く」 という選択が必要になります。
それは逃げではなく、お互いの心が壊れないための、静かな「慈悲」となります。
まずは、自分自身に問いかけることから。 そこからしか、本当の解決は始まらないのだと思います。
