「ちょっと暇なくらいが、ちょうどいい」— 忙しさの中で見つけた心の余白

shoei
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こんにちは、しょうえいです。

最近、「やることが多いなあ」と思う日が続いていました。
朝から晩まで、やることリストを片手に動き回って、気がつけば一日が終わっている。
予定が詰まっていることに安心しながらも、どこか心が追われている感じがしていました。

そんなとき、ふと、「なんだか、みんなもっと暇でいてもいいんじゃないかな」と思いました。
もちろん、やるべきことがあるのはありがたいことです。
でも、「この忙しさって、本当に必要なのかな?」と問いかけてみたら、心が少しほっとした気がしました。

スマホを開けば、すぐに答えが出る。AIに聞けば、たいていのことは教えてくれる。
便利な時代に生きていることへの感謝は、日々感じています。
おかげで、遠くの人ともすぐにつながれるし、仕事も早く進むようになりました。

でもその一方で、いつも「何かとつながっている」ことに、ちょっと疲れてしまうこともあります。
誰かの通知、締切のリマインド、次々に入ってくる情報。
「便利」と「せわしなさ」は、表裏一体なんだなと感じるのです。

最近では「デジタルデトックス」という言葉もよく耳にします。
どこか矛盾しているようで面白く感じます。
便利さに感謝しつつ、でも少しだけ離れたい。
そんな気持ちになることはないでしょうか。

ある日のこと。
家の近くを散歩していて、ふと思い立ち、スマホを家に置いて出かけてみました。
いつもなら音楽やYouTubeを聞きながら歩いていた道が、今日は静かで、そして豊かでした。
不便を選んだつもりはなかったけれど、手間や不自由さの中に、確かに「気づき」があるんだなあと感じた瞬間でした。

たとえば、手動でドリップするコーヒーの香り、湯船にゆっくり浸かる時間、誰かに手紙を書くこと。
そんな些細な手間が、心の余裕につながっていくのかもしれません。

「すこし暇なくらいが、ちょうどいい」
そう思えるようになってから、物事の感じ方が少しずつ変わってきました。
例えば、季節の変わり目に気づいたり、人の表情を丁寧に見るようになったり。
心の中に余白があると、いろんなものが自然と入ってきます。

仏教では、「間(ま)」や「無常(むじょう)」といった言葉がよく出てきます。
「間」は、音と音のあいだ、言葉と言葉のあいだ、動きと動きのあいだにある、静けさや余白のこと。
「無常」は、すべては変わりゆくものだという教え。
だからこそ、何かをぎゅうぎゅうに詰め込むより、空けておくこと、流れに身をゆだねることが大切なのかもしれません。

暇は、決して悪いものじゃなく、むしろ心のなかに余白があるからこそ、明日の元気が育まれるんだと思います。

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しょうえい
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僧侶
お寺の住職として、仏教の学びや日々の気づきを、暮らしに活かせる形で発信しています。 心と生活が少しでも軽く、豊かになるきっかけになればうれしいです。 コメントなどもお気軽にどうぞ。
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