仏とは何か?を考える

こんにちは、しょうえいです。
今回は「仏とは何か?」という、仏教の核心に触れる問いについて、真言宗の教えをもとに考えてみたいと思います。
仏像に手を合わせながら、私は誰に祈っているのだろう?
お寺にお参りをするとき、私たちは当たり前のように仏像に手を合わせます。
でもそのとき、心の中ではっきりと「この方が仏である」と意識しているでしょうか?
「仏さまって、結局誰のことなのか?」
そんな素朴な問いから、今回の思索は始まりました。
歴史上の仏──釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)
まず仏教の始まりを辿ると、お釈迦さまにたどり着きます。
紀元前5世紀頃のインドで生きた王子、シッダールタ。
彼は人生の苦しみに向き合い、出家と修行を経て、ついには「悟り」に至りました。
この悟りを開いた存在が「仏陀(ブッダ)」です。
つまり仏とは、「真理に目覚めた人」であり、「苦しみから自由になった存在」でもあります。
しかし、仏教はお釈迦さま一人だけを仏と見ているわけではありません。
真言宗における仏──宇宙に遍在するはたらき
真言宗では、仏とは「宇宙そのものの根本原理」、つまり大日如来(だいにちにょらい)とされます。
大日如来は、姿形を超えた、万物を生み出し、育む「慈悲と智慧のエネルギー」。
そしてこのエネルギーは、私たち一人ひとりの中にも宿っており、
「仏とは、外にいる“誰か”ではなく、自分の中に目覚めの種として息づいているもの」
という考えが真言宗の教えの核心にあります。
三密が整ったとき、人は仏に近づく
真言宗では「仏とは、身・口・意の三密が調和した存在」と説かれます。
- 身:落ち着いた所作、優しいふるまい
- 口:正直な言葉、温かい言葉を使う
- 意:澄んだ心、怒りや欲に流されない心
この三つが整ったとき、人は仏に近づくとされます。
嘘をつかず、思いやりをもって、静かに生きる。
それは特別なことではなく、日常の中で実践できる仏道そのものです。
即身成仏──「このままの私」で仏になれる
真言宗の特徴的な教えのひとつが「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」です。
これは、「この身このままで仏になれる」という考え方。
何かを捨てて、生まれ変わって、ようやく仏になるのではなく、
今この瞬間の私が、仏と響き合うことができるという優しい視点です。
「完璧な人」になることを目指すのではなく、「不完全なままの私」が整おうとする道。
そのプロセス自体が、すでに仏への道となっているように感じます。
仏とは「理想の他者」ではなく「内なる理想」
仏とは、私たちが外側に置いた「理想の他者」ではありません。
むしろ、自分の中に宿る「こうありたい」という静かな理想なのかなと思いました。
仏とは、今ここに整おうとしている“私自身の奥深く”にある光であり、 日々、祈りや実践を通して、再び出会いなおすものなのです。
最後に
仏とは、遠い存在ではなく、今日という一日を、やさしく丁寧に過ごそうとするその姿の中に、すでに仏の光は息づいていると言われます。
私もまた、「今の私」に手を合わせながら、日々の生活を続けていきたいと思います。