しょうえいの日録
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祈りとは何か?を考える

shoei
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こんにちは、しょうえいです。

仏さまに手を合わせる、願いごとをする──

それはとても自然な行為ですが、私たちは本当に「祈りとは何か」を理解しているでしょうか?

今回は、「祈りとは何か?」という問いについて、私自身が日々の実践の中で感じていることを、少し綴ってみたいと思います。

祈りは誰のため?何のため?

多くの方にとって、祈りは「叶えたいこと」や「困りごとの解決」を願う行為かもしれません。

けれど私にとって祈りは、単に願いを届けるものというよりも、

自分自身を整え、仏とつながるための修行のようなものです。

祈るという行為を通して、「自分の内側」を静かに見つめ直す──

その時間こそが、祈りの第一歩なのではないかと感じています。

外に願うのではなく、内を整える

祈りは「一方的なお願い」で終わってしまうと、どこか不安が残ります。

大切なのは、祈る自分の“ありよう”を整えていくこと

もちろん願うこと自体が悪いわけではありません。

でも、「なぜこの願いを持ったのか」「その奥にはどんな想いがあるのか」に気づけたとき、祈りはぐっと深まるように思います。

たとえば「家族が健康でありますように」と祈るとき、

そこには愛情だけでなく、不安や執着が混ざっていることもありますよね。

その感情に気づき、調和を取り戻していく。

そんな“心の時間”が、祈りの本質なのかもしれません。

仏とは「整った自己」でもある

仏さまというと、「外に祀られている存在」というイメージが強いかもしれません。

けれど、真言宗では仏とは私たちの内にすでに宿る“仏性(ぶっしょう)”と考えます。

つまり祈るということは、

「自分の中の仏」と響き合うことでもあるのです。

この視点に立つと、祈りは「叶えてもらうもの」ではなく、

「自分の中にある仏性を呼び覚ます行い」になります。

祈りとは止観(しかん)の時間

仏教には「止観(しかん)」という言葉があります。

  • 止(とどめる):心を静かに鎮めること
  • 観(みる):ものごとの本質を見つめること

祈りの時間もまさにこれと同じで、

願いの奥にある執着や焦り、不足感に気づくための時間だと私は感じています。

そして、静かに手を合わせたあとは、

少しだけ気持ちが軽くなって、穏やかな心で日常に戻れる。

それこそが、祈りの持つ“功徳”なのかもしれません。

ご利益とは「変化する自分」のこと

お寺では「ご利益(りやく)」という言葉をよく使います。

以前は「願いが叶うこと」と思っていましたが、

今では「仏とつながることで、自分が変わること」だと受けとめるようになりました。

たとえば──

  • 不安だった心が少し落ち着いた
  • 優しい言葉を選べるようになった
  • 前よりも感謝の気持ちが自然に湧いてきた

そうした内面的な変化こそが、

祈りの中で起きた“仏さまとの共鳴”の証ではないかと思っています。

三密の行としての祈り

真言宗には「三密(さんみつ)」という実践があります。

  • 身密(しんみつ):合掌、印契、礼拝など、身体を通じた祈り
  • 口密(くみつ):真言を唱えること
  • 意密(いみつ):仏を心に観想し、心を整えること

この三つがそろうことで、

祈りは“仏と一体となる行”になるのだと教えられています。

ただ手を合わせるだけではなく、

唱える言葉に心を込め、

心に浮かんだ願いを丁寧に観察し、

体をととのえて祈る。

そのとき、祈りはお願い事から“修行”へと昇華していくように思います。

まとめ

今回の振り返りから祈りは、

「整った自己=仏」と向き合う時間のように感じました。

祈ることで、自分が変わり、言葉が変わり、行動が変わり、人との関わり方も変わっていく。

それはつまり、

祈りを通じて“仏のような在り方”を今ここに体現していくことなのかもしれません。

今日もまた、手を合わせながら、自分自身の内にある仏と静かに向き合っていきたいと思います。

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僧侶
お寺の住職として、仏教の学びや日々の気づきを、暮らしに活かせる形で発信しています。 心と生活が少しでも軽く、豊かになるきっかけになればうれしいです。 コメントなどもお気軽にどうぞ。
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