“わたし”の本当の姿

こんにちは、しょうえいです。
今日は、「“わたし”って本当にあるのだろうか?」という問いについて、仏教の教えにふれながら、ゆっくり考えてみたいと思います。
当たり前に思っていた“わたし”
私たちは日常の中で、自然と「これは私の体」「これは私の考え」といった“私”という感覚を持って生活しています。
あまりにも当たり前すぎて、それを疑うことはなかなかありません。
けれども、仏教ではそこにひとつの問いを投げかけます。
「その“私”って、本当にあるの?」
私がこの問いに初めて出会ったとき、正直、少し混乱しました。
「え?じゃあ、今こうして考えている私は存在しないの?私って何?」
でも、仏教が伝えようとしているのは「何もない」という否定ではありません。
むしろ、より広い視点から“私”という存在を見つめ直すことの大切さを教えてくれているように感じます。
五蘊──私を形づくる五つのはたらき
仏教には「五蘊(ごうん)」という言葉があります。
これは、私たちの存在を形づくる五つのはたらきのこと。
- 色(しき):身体や物質的なもの
- 受(じゅ):感じること(暑い・寒い・心地よい・不快など)
- 想(そう):イメージを浮かべたり、意味づけをすること
- 行(ぎょう):心の動き、意志、性格的傾向など
- 識(しき):気づくこと、意識そのもの
この五つのはたらきが一時的に集まって、「私」が今ここにあるように見えている。
でも、それぞれは常に変化していて、固定されたものではありません。
だからこそ、仏教は「不変の“私”という実体は存在しない」と説きます。
“関係性”の中にある“わたし”
それでも私たちは「今、ここに生きている」と感じています。
私自身も、両親から生まれ、育てられ、多くの人と出会い、学び、さまざまな経験を通して今の私が形づくられてきました。
でも、それは“関係性”の中で生まれたもの。完全に独立した個ではなく、かといって誰かのコピーでもありません。
そしてこの世を去ったあとも、私の言葉や行動が誰かに影響を与えたり、身体の一部が受け継がれたりするかもしれません。
それでも、“私そのもの”が続いていくわけではないのだと、仏教は教えてくれます。
輪廻と因果──“私のようなもの”が残っていく
「輪廻」という言葉はよく耳にします。
前世や来世というと、つい“誰かが生まれ変わる”ようなイメージを持ちますが、
仏教が伝えるのは、「行い(業)が因となり、次の結果を生む」という因果の流れです。
“私のようなもの”がまた別の形で現れていく。
火が燃えて、次の薪に火が移る。
前の火はもう消えているけれど、その熱や光の影響は、確かに次へとつながっている。
空(くう)──“ない”ではなく“つながっている”
こうした仏教の考え方は、「空(くう)」という教えにつながります。
「空」とは、すべてのものが“関係性の中に存在している”ということ。
“私”という存在もまた、あらゆる縁によって今ここに現れているにすぎない。
「私はこうあるべき」「こうじゃなきゃダメだ」といった思い込みを、そっとほどいてくれる優しさがこの教えにはあるように思います。
「あなたは尊い」と教えてくれる
仏教は、「あなたは存在しない」と冷たく突き放しているわけではありません。
むしろ、こんなふうに語りかけてくれているように感じます。
「固定された“私”という実体はないかもしれない。 でも、今ここに現れている“あなた”は、確かに尊い。」
おわりに
変わり続ける命の中で、「いま、ここにいる」こと。
改めて心に留めたいと思いました。